関西との距離感

 職場で「関西出身です」というと大抵意外な顔をされる。普段ほとんど関西弁を使わず、標準語で話しているからだ。
 
 理由を聞かれたときにはいつも、「会社の人との間で関西弁を使うと、距離を詰めすぎな気がするので」と答えるようにしている。それは確かに理由の一つなのだが、それがすべてかといわれるとどうも違う気もする。会社で関西弁を出すということは、「素の自分を演じる」ことだからだ。
 
 標準語で話すようになったのは就活を始めてからだと思う。それまではあまり話したことがなかったにもかかわらず、面接の場ではあまり苦にならず敬語(=標準語)を使うことができ、自分でも驚いたのを覚えている。面接は「社会人としてあるべき自分」を演じることであって、それは会社に入って研修を受け、職場に配属されてからも変わらない。標準語を話す自分は、ある程度演技の入った自分であり、かつそれをわかりやすく提示した状態だ。
 
 その分、職場で関西弁を話すということはその演技、パフォーマンスをやめ、本来の自分として話しているように見えるかもしれない。しかし職場である以上、リラックスした素の自分が出るわけはない。その中で関西弁を話すということは、「つい気が緩んで関西弁が出てしまった人」を演じているように感じてしまう。職場で標準語を話している自分とは違い、関西弁を話している自分は演技が二重になっている。もちろん、気が緩んでという理由もないではないが、自然を装って関西的なものに頼る自分が、家に帰ってから毎回恥ずかしくなってしまう。
 
 関西弁をうまく使って話したり文章を書いたりできる関西の人もいて、それはとてもうらやましい。発話している自分を俯瞰しながら、面白くなるように構成しているからだ。郷土的なものと自分を同一化するのではなく、一定の距離をとりつつ、あくまで一つの要素として組み込んでいる。大学で書いた卒論では「道徳に愛国心・郷土愛は必要なのか」という今考えたら不穏なテーマで書いたけれど、問題意識はその時と同じようなものだと思う。