祭について

 祭が好きだ。それを自覚したのは、高校に入ってからだったように思う。

 

 私の通っていた学校には、なぜかあらゆるイベントのタイトルから「祭」を排除するという、硬派なのかなんなのかわからない謎の校風があった。文化祭は「文化展示発表会(略称:文展)」であり、体育祭は「運動会」であり、祭ではないが、ついでに修学旅行は「宿泊研修」と呼ばれていた。(ちなみに一番盛り上がらない音楽祭だけは「音楽祭」と呼ばれていた。)

 

 高校に入ったばかりの私はとても暗く、誰も友達がいなかったので、一年生の「文展」では自分のクラスの演劇が終わった後、ただ一人で出店や展示を巡るというありさまだったが、学校全体の高揚感、非日常感は、そんな私にとっても楽しい思い出として残っている。大学でよさこいや演劇のサークルで活動したり、就職でテレビの会社を選んだりしたのは、その原体験があったからかもしれない。

 

 今年の夏は、二つの祭を観に出かけた。一つは働き始めてから(ほぼ)毎年行っている高知よさこい、もう一つは初めて訪れるあいちトリエンナーレだ。相反するような内容(と客層)の二つの祭を眺めながら、考えたことを残しておきたい。

 

 祭の本質は、「共有」にあると思う。運営者、参加者、鑑賞者のすべてが、何らかのコードを共有することで、祭が成立する。共有の範囲が大きくなり、深度が高まるほど、祭は成功しているといえる。よさこいを例に挙げると、初めて観る大抵の人は、地方車(音響機材を積んだトラック)が響かせる爆音に一度は嫌気がさすだろう。また、商店街すべてを施入する会場の広さ(とそれに伴う交通規制の多さ)や、踊り子の多さに驚く人もいるかもしれない。この規模の「迷惑」を受け入れられる土地は、そうないだろう。それを可能にしているのは、今年で66回を数える歴史と、参加へのハードルの低さである。

 

 数あるよさこい祭の中でも、高知よさこいは参加者の年齢層が幅広く、特に子どもの参加率がかなり高い。商店街や会社単位で参加をしている地元チームが大半を占めており、パレードの最後尾には、おそらくメンバーの家族と思しき幼子が、後ろから見守られながらただ前の人についていくという微笑ましい光景が見られる。そう、ついていくだけでそれは「参加」なのだ。事実、よさこいの定義は①「よさこい鳴子踊り」のフレーズを盛り込まれた曲で、②鳴子を鳴らし前進する踊りであり*1、それさえ満たせばあとは何でも自由だ。物心つく前から刷り込まれた記憶と参加へのハードルの低さが、祭の受容、共有を容易にし、日常(ないしは他の街)では許されない振る舞いを可能にしている。

 

 他方、あいちトリエンナーレのような芸術祭では、どのように共有が行われるのだろうか。「情の時代」という今回のテーマが表している通り、鑑賞者の感情を様々な形を通じて刺激し、自己反省を促す数多くの作品が各会場で展示されている。例えば、アンナ・ヴィットの『60分間の笑顔』では、フォーマルな服装で立ったまま笑顔を60分間続ける男女8人の姿を通して、感情の源泉とはなにかを考える人もいるだろう。さらには、いわゆる「感情労働」に従事する人々に思いをはせたり、右から3番目の男性が完全に飽ききっている様子をにやにやしながら見たり、あるいはこの動画の「何も起こらなさ」にうんざりして足早に立ち去ったり…と、その受け取り方・反応は多様であり、かつ複合的である。また、タニア・ブルゲラの『43126』では、半ば強制的に手の甲へ押印される8桁の数字(世界にいる移民の数、日ごとに増えていく)と、涙を誘発するガスで満たされた小部屋での体験から、移民が受ける苦しみに共感を覚える人もいれば、自分の他者への共感のあり方に疑問を抱くこともある。*2ほかにも紹介したい作品は多々あるが、それらはぜひ現地で味わってほしい。すべての作品は多様な解釈に開かれており、それはアーティストの意図するところを容易に飛び越えていく。この散逸的な体験を祭の形として結びつけるものこそ「地域性」であり、今回で言えば愛知、名古屋という場の特性だと思う。

 

 今回のあいちトリエンナーレに設けられた4エリアの一つ、四間道・円頓寺での展示は、通常ギャラリーとして利用されている建物だけでなく、江戸時代から続く古民家、商店街の道端、果てはアパートの一フロアで行われる。今回訪れるまで、恥ずかしながら全く知らない地域だったが、街全体の雰囲気がとてもよい。作品が街、建造物と必然的に溶け合い、作品と鑑賞者を結びつける。その実感は、芸術祭に足を運び、同じ空間で鑑賞するという体験なしには得られないものだろう。空間の共有に始まり、文脈や歴史、コードを徐々に共有することで、初めて祭に「参加」することができる。高知よさこいよりその道のりは長くとも、丁寧に歩めばそれは同じプロセスだと思う。

 

 何より言いたいのは、みんなあいちトリエンナーレに行こう、名古屋(ないしは豊田)で感想言いあおう、ということだ。もちろん、「祭に参加していない外野からの批判はすべて無効だ」という考えは行き過ぎたものだ。哲学者の森岡正博が指摘している通り、あいちトリエンナーレ2016では、鳥の生態展示について抗議が行われている。*3それが有効になるのは、作品がいわゆる「危害防止原理」*4の侵犯をしているか否か、という点だと個人的には思うが、そもそも「何かについて話すためには、何らかの前提が必要」というメタの前提すら共有していない状況で、我々ができることはあまりに少ない。サイバースペースという均質な仮想空間において問題が爆発したことは、必然の結果であるようにも思える。現地に行って観ること、作品によって感じた内容を他者と対面して話し、共有すること、それらを面倒がらずに一つ一つやることでしか、前に進む道はない。「話し合えば何でもわかりあえる」と言えるほど楽観的ではないが、少なくとも自分の振る舞い方としては、それを愚直にやり続けるほかないのではないだろうか。偉そうに言ってはみたものの、一日で半分の2エリアしか廻れなかった私はまだまだ足りていないので、これ以上展示が少なくなる前にもう一度あいちトリエンナーレに行きたい。

*1:南国土佐・高知よさこい祭り公式Web Site www.cciweb.or.jp/kochi/yosakoiweb/k_yosakoi/

*2:抽象的な数字への共感や、スポットライト的な特性については、ポール・ブルーム『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』を参照。

*3:あいちトリエンナーレ2016 ラウラ・リマ《フーガ(Flight)》に関する鳥の取扱いについてhttps://aichitriennale.jp/2016/info_lauralima.html

*4:http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/harm_principle.html